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2012年12月5日水曜日

さまざまな仕掛けがある二條陣屋の不思議?

Hirokoです。

二条城の南側に「二條陣屋」と呼ばれる観光名所があります。

江戸初期の1670年(寛文10年)ごろ、米・両替商を営み、二条城への
出入りも許された小川家という御用商人によって建てられた町家です。
現在も、小川さん一家が住んでおられます。

もともと個人の屋敷なのに、江戸時代から「陣屋」と呼ばれているのは、
当時、京都に屋敷を持たない大名たちが、「本陣」として利用したから
であるといわれます。

小川さんの先祖は、豊臣秀吉に仕えた伊予今治七万石の城主で、
小川土佐守祐忠といいました。

しかし、関ヶ原の合戦に敗れて出家。
その長男が京都で商売をはじめて大成功をおさめ、この地に一階11室、
二階13室の大邸宅を構えたのです。

でも、商人として巨大な富を築いたといっても、血筋は武士の出身。
また、米・両替商として大名との取引もあったので、小川家には京都に
屋敷を持たない大名たちが寝泊りするようになったそうです。

そもそも、この大邸宅は、大名たちが寝泊りするように配置されており、
やがて「二條陣屋」と呼ばれるようになったのです。

大名が泊まるのだから、いつどんな緊急事態が起こるやもしれず、
各部屋には、さまざまなからくりが仕掛けられているというわけです。

たとえば、廊下はすべて鳴板(なりいた)で、侵入者がいれば響く仕掛け
になっていますし、屋敷内には吊り梯子(つりばしご)や落とし階段が
隠され、いくつもの抜け穴が用意されているそうです。

また、広間の明かりとりは、上部が武者だまりになっていて、ここから
護衛の武士が主君を見守った。さらに、一番奥の八畳間は、畳を上げ
ると総檜張り(そうひのきばり)の能舞台に一変。

完全な防火建築となっているのも特徴で、屋根の先には銅板が張り
巡らせてあったり、庇の樋(ひさしのとい)から水で濡らしたスダレを
垂らして火を防ぐようになっていたり、

敷地内に12ヶ所もある井戸は、すべてが地下でつながり、決して水が
涸れないように工夫されているそうです。

そのおかげで、天明の大火のときも、幕末の争乱の際も焼失を免れ、
現在まで持ちこたえたと言われています。





二条陣屋(二條陣屋)は京都、
二条城の城下にあって、
江戸時代後期の豪商の邸宅として、
隋を凝らした意匠と身の安全を図る
ための防衛建築が見られます。
 
代々、小川家の住宅であり,
現住民家では全国で2番目に
国の重要文化財に指定されています。







 

屋敷ご案内



大広間
大広間から眺める庭  当主の応接の間として使用された部屋です。
 格式ばった書院造の中に、花模様の九谷焼(石川県)の釘隠しと捻梅透かし彫りの欄間が数奇屋造の柔らかさを醸し出しています。
 透かし彫りは、行灯だけで天井照明がなかった時代の装飾で、下方からの明かりが天井に映し出す捻梅がかわいらしいです。
 床脇の天袋には、狩野永真の墨絵が描かれ、引手は丸に一文字を添え当家の略紋が施してあります。
 地袋には、松尾芭蕉の門人の小川破笠の象嵌細工が見られます。板戸に陶器、螺鈿(貝殻を薄く切ったもの)、ギヤマン(当時輸入されたガラス)を嵌め込み、蒔絵を施しています。(現在は京都国立博物館に寄託)
 造作には、楓の一枚板、桐、桑など銘木が使用され、襖の腰絵には、円山派の長沢盧鳳が松づくしを描いています。
帳台構(起源は寝室への入り口)は廊下へと続き、襖には鍵が掛かるようになっています。
 格天井の一角が天窓として開けられていますが、来訪者の死角側には天井裏に隠された見張り部屋(武者隠)からの降り口があります。
床の間
松づくしを描く襖




お能の間
敷き舞台  二間四方の敷き舞台ですが、床下は中央を深く掘り下げ、漆喰で塗り固められており、そこへ向けて四つの甕が埋けてあります。
 能は摺り足の一歩が千里の距離を表し、一つの足拍子が世界を変えると言われており、音響的な造りは本格的なものとなっています。
 普段は畳を敷き、大広間の控の間として使用されていたので、障子と板戸の段襖という意匠が施されています。
 能舞台として使用するときは、板戸を落として障子を塞ぐことにより鏡板に変わり、地謡方の奏でる音を反響するようにしてあります。
 橋掛りとなる廊下には、その腰絵に三本の若松が描かれ、袖壁は能装束を傷めないよう、西陣織の糸くずを丹念に塗り込めた糸壁になっています。




春日の間
三笠山を描く床張り  「二條陣屋と小川家のルーツ」で述べましたが、奈良の先祖を偲んで作られた部屋です。
 床張りには雲中に浮かぶ三笠山が描かれ、天袋には東大寺、春日大社の周辺が描かれています。面する庭には春日大明神を祭る祠があります。
 雨戸は、京町家独特の廻り戸袋に収められ、床の間が暗くならないようにしてあります。
 当室は、隣室の「皆如庵」茶室の待合となっており、面する庭には蹲が置かれ、石橋を渡ってにじり口へと向かうようになっています。




皆如庵
「皆如庵」茶室にじり口  京都東山の西行庵に同名の茶室があり、その名を取ったと思われます。外壁は鉄粉を塗り込め、故意に錆を浮かす蛍壁で、ひなびた雰囲気を醸し出しています。
 一畳台目の対面式茶室であり、にじり口を通常よりも高くして頭を下げて入ることのないよう配慮し、角のない丸い炉を設け「角が立たないよう、丸くおさめるよう」暗示していることから、米・両替商の顧客武士らを招いた商談用の茶室と推定されます。




苫舟の間
苫舟の間  当時、屋敷のすぐ傍にきれいな小川が流れており、その上に棟から突き出すように作られた茶室です。
 入り口には故意に段差をつけ、桟橋から舟に乗り移る気分を醸し出し、天井は屋形舟そっくりにして、水上にいるかのような雰囲気でお茶を楽しめるようにしています。
 茶の湯は、眼下の小川から滑車で汲み上げたと思われ、囲み井戸の跡が残っています。




防衛建築
 

当屋敷の最大の見どころは、巧妙な防衛建築にあります。
ここで防衛建築と言うのは、攻撃する仕掛けは一切なく、
ひたすら逃げ隠れを目的としたものだからです。


武者隠
武者隠の降り口  大広間の天井裏に隠された見張り部屋で、主人と来訪者との応接の様子を、手代が見張っていたと思われます。
 武者隠からの降り口は、来訪者からは天窓にしか見えない死角側にあり、不審に思われることなく見張りができるようになっています。


吊り階段
収納した吊り階段
収納
展開した吊り階段
展開
 当屋敷は、大広間等の奥の間に入ると、来訪者からは2階への階段がすぐにわからないように作られています。
 この階段は、「皆如庵」茶室の水屋付近にあって、通常は吊り上げておくことで茶壷棚に見せかけています。




隠し階段
隠し階段と引戸  この階段は、来訪者にわからないように上り口が押入の中に隠されています。また、下り口には引戸が付いています。
 引戸には、裏側から鍵が掛かるようになっており、下りる時に鍵をすれば2階からは開けることができなくなります。




猿梯子
猿梯子の降り口  2階からの緊急用降り口です。吊り階段も、隠し階段も普段は隠してありますので、裏を返せば階下へは下りにくく、このようなものが必要と考えたようです。
 長押し等に足をかけて、猿のように降りてくることから、その名があります




防火建築


当屋敷の創建は江戸時代寛文年間(1661~1673年)と
云われますが、天明8年(1788年)の大火では、甚大な被害を
受けたと推定されます。

屋敷は、これを教訓とした精緻な類焼防止建築を備えます。

軒裏の防火構造
軒裏の防火構造  軒裏への飛び火の侵入は最も恐れられており、軒裏は丹念に漆喰で塗り込められていますが、庭に面した軒裏は漆喰塗り込めでは風情が損なわれます。
 そこで、この部分の軒裏には、広小舞に銅板を葺くことで飛び火の侵入を防ぐ工夫がしてあります。
 また、垂木の先端には濡れむしろを吊るす金具が付けられており、火災に弱い障子等の建具へ類焼するのを防ぐ工夫がしてあります。




虫籠窓と土戸
 京町家に多く見られる虫籠窓は、その形状が虫かご、あるいは麹屋で使う蒸子に似ていることからその名があります。
 火災に強い意匠のひとつですが、内側にはさらに土戸が設けられ、開口部を完全に封じて、飛び火の侵入を防ぐようにしてあります。
開放した窓  開放 土戸で閉鎖  閉鎖 


 
アクセス
  • 二条城東大手門(観光客の入城門)から徒歩8分
  • 京都市営地下鉄東西線 「二条城前」駅下車 ③番出口から徒歩3分
  • 京都市バス15号系統 「神泉苑前」下車 徒歩2分
  • 京都市バス9、12、50、67、101号系統 「堀川御池」下車 徒歩5分
  • JR嵯峨野線 「二条」駅下車 東へ徒歩15分
  • 阪急電車京都線 「大宮」駅下車 北へ徒歩15分
  • JR京都駅からタクシーで20分。なお、住所は町名ではなく、
  • 「大宮通御池下(さが)る」とお伝えください。 

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