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2012年12月12日水曜日

なぜ蛸薬師(たこやくし)はお寺の名前に「蛸」がつく ?

Hirokoです。

京都の中心に「蛸薬師通」という道路があります。
東は高瀬川にかかる蛸薬師橋から、西は西大路通を越え、佐井西通まで
という、かなり長い通りです。

きょうとの街を散歩中、この蛸薬師通を見つけ、「蛸薬師って、面白い名前。
どんなお寺か、行ってみたい」と思う観光客は少なくないと思います。

でも、蛸薬師通は長い通りなので、地図も見ずに歩くと、迷ってしまうかも
しれません。

じつは、「蛸薬師」というのは通称で、お寺の正式名は「妙心寺」。
四条河原町の近く、新京極にあるお寺です。

四条通から新京極通を北に向かう右手、門前にたくさんの提灯が並んで
いますので、すぐにわかると思います。

ただ、同じ名前のお寺が花園にあることも、観光客が迷う原因になって
いるようです。

妙心寺が「蛸薬師」と呼ばれるようになった理由をめぐっては、次のような
逸話が残されています。

後深草天皇の時代(1246~59年)、善光というお坊さんが、病気の母親が
食べたいといったので、戒律を破ってタコを買った。それを人々にとがめ
られて、あやうくタコを取り上げられそうになったのだが、そこで本尊に祈った
ところ、タコの八本足が八巻の大乗経典にかわった。以来、霊験あらたかな
「蛸薬師」さんとして、お参りする人が増えた。
と伝えられているというわけです。

もともと、この妙心寺は、室町二条下ルにあったお寺で、その周辺には今も
「蛸薬師町」という町名が残っています。

現在の新京極には、豊臣秀吉の命令で移ったといわれ、その際「四条坊門
小路」と呼ばれていた通りの名も、「蛸薬師通」にかえられたそうです。

ちなみに、蛸薬師のご本尊は、もちろん薬師如来。
伝教大師の作と伝えられる石造仏です。



蛸薬師通

平安京の四条坊門小路にあたり、東は河原町通りから西は佐井西通西入ル
に至る全長約3.5kmの通りです。
四条坊門小路が蛸薬師通に変わったのは、天正十 九年(1591)に、
豊臣秀吉の都市改造に際して、永福寺(蛸薬師堂)が妙心寺に合併され
現在地に移転されたためという説があります。




室町通にある永楽屋室町店(えいらくや)です。

四条河原町に本店を持ち、佃煮・和菓子を中心
に漬物や珍味なども取り扱うお店です。

店舗前には駐車場もあり、ゆっくりとお買い物を
して頂けます。










鳥丸通蛸薬師にある北国銀行
(きゅうやまぐちぎんこう)です。

辰野金吾の設計で大正5年に完成しました。
もともと山口銀行の京都支店でしたが、その後
大阪財界人から望まれ、三十四銀行・鴻池銀行
との合併で三和(現UFJ)銀行となりました。
現在は北陸地方を本拠とする、北国銀行の
京都支店となっています。







蛸薬師通油小路西にある空也堂(くうやどう)です。

空也堂は空也を本尊とするため空也堂と呼ばれていますが、
正しくは紫雲山極楽院光勝寺(しうんざんごくらくいんこうしょうじ)
といい、天慶元年(938年)に空也が開創したと伝えられています。
元々の空也堂は応仁の乱で焼亡し、寛永年間に現在地に移った
といわれています。






 蛸薬師堂(永福寺)(たこやくしどう(えいふくじ))

蛸薬師通新京極にある蛸薬師堂(たこやくしどう)です。

蛸薬師堂は正しくは瑠璃光山林秀院永福寺といい、
元は二条室町(現在の蛸薬師町か)にあったものが天正年間に
現在の場所に移転されました。
蛸薬師堂永福寺は、昔より寺内に一歩踏み入れただけでも、
蛸薬師如来さまのご加護があると言われている霊験あらたかな
お寺です。



































新町通蛸薬師下るにある茶屋四郎次郎邸跡
(ちゃやしろうじろうていあと)です。

茶屋家は安土桃山~江戸期の京都の豪商で、当主は代々
四郎次郎を名乗っていました。
三河国の出身で徳川家とのつながりが深いそうです。
初代四郎次郎清延は、京都における徳川家康の用達を務めて
いました。






河原町蛸薬師東にある、土佐稲荷(とさいなり みさきじんじゃ)です。

土佐稲荷(岬神社)は江戸時代は土佐藩邸内にあったが、
明治維新で屋敷が売却されたため、明治20(1887)年に現在地
に移されました。
当時から土佐藩士だけではなく近隣の人々からも信仰の厚かった
ようです。神社内には龍馬の像が残っています。







木屋町通にある土佐藩邸跡(とさはんていあと)です。

土佐藩邸があったのは現在の旧立誠小学校一帯です。
龍馬をはじめ、多くの土佐藩士達も土佐藩邸に出入りしていました。
坂本龍馬は、役人ばかりが滞在している京都の土佐藩邸をあまり
好まなかったと言われています。







蛸薬師通室町東入るにある橋弁慶山(はしべんけいやま)です。

橋弁慶山は、弁慶と牛若丸が五条大橋で戦う姿をあらわして
います。弁慶は鎧姿に大長刀を斜にかまえ、牛若丸は橋の欄干の
ぎぼしの上に足駄で立ち片足を曲げ右手に太刀を持っています。
橋は黒漆塗で牛若丸の人形は足駄金具一本でこれを支えています。








油小路通蛸薬師にある本能寺跡(ほんのうじあと)です。

本能寺は織田信長が明智光秀の襲撃により非業の最期を
遂げた場所です。本能寺の変の際に全焼した本能寺は、
すぐに再建にかかりましたが、現在寺町にある本能寺は秀吉に
よって場所移されたものです。
その後本能小学校がこの地にありましたが、近年閉鎖・取り壊し
となり現在は福祉施設となっています。
 

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