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2012年11月30日金曜日

京都の紅葉を楽しめる場所?

Hirokoです。

(何日間か忙しくて、チョットサボってました。)
今日は京都の紅葉を楽しめる場所についてお話させて頂きます。

「京都に紅葉を見にいきたいけれど、見どころが多すぎて、どこに
行くか決められない」という声をよく聞きます。

たしかに、京都には、紅葉の名所が数え切れないほどあります。
清水寺、南禅寺、永観堂などがある東山周辺、常寂光寺や祇王寺
のある嵯峨野、龍安寺や仁和寺のある北区―― 。

こんなにたくさんあれば、迷うのも当然、ではこう考えてみてはどう
でしょうか。

上記にあげたようなお寺は、紅葉以外にも見どころが多いので、
別の機会に訪ね、紅葉の季節には、とのかく紅葉がポイントという
場所を訪ねてみられてはどうでしょうか。

紅葉そのものを楽しみにいく―― そう決心あなたに、オススメ の
スポットをご紹介します。

市内の北西に位置し、俗に「三尾」と呼ばれる、高尾(高雄)、槇尾
(まきのお)、栂尾(とがのお)の三集落です。

清滝川の渓流に沿うこの地域は、古くから紅葉狩りといえばここ、
といわれてきた紅葉の名所。
市街地からそう遠くはなく、それでいて、静かで豊かな自然に
囲まれているため、京都の人たちにも人気があるといわれます。

三つのエリアには、それぞれ神護寺、西明寺、高山寺という名刹も
ありますが、圧巻は一帯をおおいつくす紅葉また紅葉。

三尾は、京都でも屈指の紅葉の名所として知られていますが、
春の桜やツツジ、初夏の新緑や夏の川床など四季を通じて風情を
楽しむことができます。 

この三地域は、渓流沿いの山道で結ばれているため、その道を
てくてくたどっていくだけで、美しい紅葉の競演が、目を楽しませて
くれるのです。

ひと味ちがった京都を堪能できるこのスポット、紅葉の名所として
も、絶好のハイキングコースとしても、ご満足いただけるのではと
思います。


▼ 京都駅からの行き方

京都駅から高雄に行くには、JRバスの「高雄・京北線」に乗車します。
高雄は「山城高雄」、槙尾は「槙ノ尾」、栂尾は「栂ノ尾」が最寄り駅と
なります。

日中は、1時間に2~3本ほど運行しています。
京都駅から山城高雄まで約50分ほどかかりますが、バスから様々な
観光名所が見えるので、意外と早く感じると思います。

運賃は片道500円かかるのですが、なんと往復800円で乗車する方法
があります。

京都駅に着いたら、まず烏丸口(京都タワー側の出口)から駅を出ます。
すると、バスターミナルがありますが、その近くに「京都バスチケットセンター」
という建物があります。
この京都バスチケットセンターで「高雄フリー乗車券」を800円で購入します。

高雄フリー乗車券は、京都駅~栂ノ尾間を往復でき、しかも北野~栂ノ尾間
は、乗り降り自由。

ちなみに北野~栂ノ尾間には、龍安寺(竜安寺前)、仁和寺(御室仁和寺)、
平岡八幡宮(平岡八幡)、神護寺(山城高雄)、西明寺(槙ノ尾)、高山寺(栂ノ尾)
といった観光名所があります。
高雄フリー乗車券は、とてもお得なのでバスでの高雄観光には必需品ですね。


高雄フリー乗車券はコチラから、詳細をご確認ください。






京都駅烏丸口側にある京都バスチケットセンター。
ここで高雄フリー乗車券を購入するのがお得。






いざ、高雄へ

京都駅のターミナルでJRバスに乗車したら、いざ高雄へ出発。
高雄に行くなら、槙尾と栂尾の観光も一緒にする方がいいでしょう。

ただ、高雄の神護寺は険しい山道を歩かなければならず結構疲れる
ので、休憩できるだけの時間を確保しておいた方がいいと思います。
京都駅を午前10時頃に出発し、神護寺の観光を済ませた後、近くの
お店で昼食をとりながら休憩するといいのではないでしょうか。

高雄に到着

山城高雄に到着して最初に目指すのは神護寺です。
神護寺に向かう前に、高雄の自然の景色をぐるっと360度眺めてみる
のもいいでしょう。
都会にお住まいの方には、高雄の静かさと山々の自然の風景が心を
なごませてくれることと思います。
山城高雄から階段を下りると清滝川が流れています。この清滝川の
清らかな流れも心を落ち着かせてくれます。



心も洗ってくれる清滝川の流れ。
夏には川床も体験できます。






神護寺からの絶景

清滝川に架かる高雄橋を渡ると神護寺の入口に向かう石段が
あります。この石段を上るのは結構大変です。
あまり、無理せずゆっくりと上りましょう。
石段を上りきると神護寺の入口の楼門があります。
ここで拝観料500円を納めます。
楼門をくぐって目に飛び込んでくるのは広々とした白い境内。
青空がすごく近くに感じます。




広々とした神護寺の境内。
秋には紅葉で赤く映える。





神護寺には様々な建造物がありますが、やはり、神護寺と言えば
「錦雲渓」の絶景は見逃せません。
他にも文覚上人墓から見える京都市街の風景もおすすめですが、
ここに行くには険しい山道を上らなければならないので、体力に自信
のない方は無理をして行かない方が無難です。
神護寺の観光には約1時間30分ほどかかりました。山城高雄の
バス停から約20分かかりますので、2時間程度はかかると考えて
おいた方がいいでしょう。

神護寺の写真と詳細


槙尾の西明寺

神護寺を見終わった後は、槙尾の西明寺に向かいましょう。
いったん山城高雄のバス停に戻ってJRバスに乗車する方法もあります
が、歩いて裏参道から西明寺に行くのが近道です。
神護寺から高雄橋を渡ると西明寺への標識があるので、
その標識通りに行けば10分程度で到着します。
西明寺の境内は、あまり大きくないので30分程度で散策できるでしょう。

西明寺の写真と詳細

世界遺産の栂尾の高山寺

西明寺の後は、栂尾の高山寺です。高山寺は世界文化遺産に登録
されている寺院なので見ずに帰ることはできません。
高山寺の表参道は、西明寺から約10分程度歩くと到着します。
ちなみに栂ノ尾のバス停から高山寺へは、裏参道から入ることになります。




高山寺の表参道。
さりげなくあるので見逃しそうになります 。





高山寺の印象は、森林の中に建物があるといった感じです。
境内のどこに行っても木が立っています。
高山寺も神護寺と同様に紅葉の名所として有名です。秋には赤や
黄色の葉が境内を彩ります。
高山寺の境内は自由に参詣できますが、石水院には600円の拝観料
が必要です。
石水院の中はあまり広くありません。ちょっと物足りない気もしますが、
「鳥獣人物戯画」など日本史の教科書で見たことがある絵画を鑑賞
できます。こういった宝物に興味のある方は拝観してもいいのでは
ないでしょうか。
なお、高山寺の散策は1時間程度かかります。

高山寺の写真と詳細


高雄・槙尾・栂尾観光の注意点

高雄・槙尾・栂尾へは晴天の日に行きましょう。曇りの日は神護寺の
絶景を楽しむことができません。また、雨の日は足もとが悪くなるので
観光そのものができないでしょう。
お年寄りの方や体力に自信のない方は、一人で行かない方が無難です。
お連れの方と一緒に観光するのがおすすめですね。

2012年11月26日月曜日

八瀬のかま風呂が大人気の理由は?

Hirokoです。

今日は朝から雨で、肌寒い一日になりそうです。昨日とはうって
かわってです。

私の母はというと、「アッ、雨やんでるわ~今のうち行ってくるな」
「エッ?どこいくの?」 と聞くと、「おふろやさんや~」 エ~ッなんで?
の、私の声は届いていません。いそいそとカッパ持参で行きました。

なぜ、カッパがいるかと言いますと、自転車に乗るためです。
銭湯まで歩くにはちょっと距離があるため、いつも自転車に乗って、
行きます。一日一度は外に出たい、母です(子どもと一緒です)。


京都から敦賀街道を北上すると、比叡山の西麓に「八瀬」という
集落があります。

ここでは、京料理と民芸の宿「八瀬かまぶろふるさと」があり、
1300年以上の伝統がある「八瀬のかま風呂」に入ることができます。

炭焼き窯に似たお風呂の中は、六畳ほどの広さ。48℃ほどに
保たれた 内部で、半纏を着て横になるのが、一般的な入浴法。

しばらく寝転んでいると、玉の汗が吹き出してきます。
このかま風呂、装置さえ揃えば、簡単に営業できそうですが、温度
調節が難しく、床下の蒸気の管の太さや、壁の漆喰の堅さや厚さ
が秘伝だといわれます。

ガイドブックにはあまり紹介されていないが、大阪や神戸から、
わざわざ、風呂に入りにくる人もいるほどで、隠れたファンは少なく
ありません。

なにしろ、この八瀬のかま風呂は、672年の壬申の乱のときには、
すでに存在したという日本最古の "サウナ" なのです。

壬申の乱は、ご存知のように、天智天皇の弟・大海人皇子と、
天皇の息子である大友皇子の後継争い。

近江・瀬田の戦いによって、大海人皇子(おおあまのおうじ :
後の天武天皇)の勝利に終わるが、この戦いで背に矢をうけた
大海人皇子は、八瀬のかま風呂で傷を癒したと伝えられています。

この言い伝えから、中世には、戦いで傷ついた武士たちが湯治に
集まるようになって、江戸の半ばには、16軒ものかま風呂が営業
していたそうです。

かま風呂は、お湯に入ったときのような水圧がかからないので、
血圧の急変動がないことが長所といわれます。

また、発汗によって疲労を回復させ、新陳代謝を促すので、とくに
肥満の人にはもってこいの入浴法だということです。

















  

                                         現存する最古のかま風呂

 














かまぶろ内の温度は摂氏55~60℃、湿気のある和風サウナでございます。
中にはむしろが敷かれており、陶器の枕を持って入り静かに横になっている
と、ゆっくりと体が温まり自然と汗がでてきます。

効能は、神経痛、リューマチ、痔疾、胃腸病、喘息などに効果があります。
風邪、二日酔い、肩こりなどは一度の 利用でも十分爽快になります。
現在八瀬にある『ふるさと』には、現存する最古の形式のかまがあり、京都市
の文化財に指定されております。

だらりの帯に秘められた思い?

Hirokoです。

夕方、ドコモショップへ行きましたが、「しまった・・・」。
日曜日ということを忘れていました。混んでます。結構な時間
待ちをしました。

携帯電話の調子が悪く、結局買い替えたのですが、今流行りの
タブレット+携帯電話=0円。 まァ、"カラクリ"はありますが^^;

今や、携帯電話は当たり前の時代です。スマホ持っている人が
多い中、私はやっぱり、モバイルがいいと "ガラケー"にしました。

※ガラケー・・・「ガラパゴス携帯」の略。ごく一部でしか使えない
世界の流れから隔離され、独自の進化をとげた携帯のこと。
ガラパゴス諸島の生き物たちの進化形態と似ていることから
付けられたとか。
つまりは、日本の一般的な携帯電話のことをさす。だそうです。

「舞妓さんてスマホかな~、ガラケーかな~」意味もなく、ふと
考えてしまいました。(なんのこっちゃ?)


舞妓さんは、素肌に肌襦袢をまとい、緋ぢりめんの裾よけを
つけます。その上に長襦袢を重ねて、赤い衿をつけます。

さらに、友禅染の振袖に西陣織の帯を締めるのですが、
合わせると、20キロ以上になる衣装を着込んでいるのだそう
です。 「肩こるんとちゃうん ?」 資料を読みながら思わず
呟いてしまいました。

舞妓さんが着ている衣装は重たい。と聞いたことはありますが、
20キロとは。20キロの子どもをず~っと抱っこしているのです。
当然、「重たいし、ちょっとおりて~」はできません。

その衣装の中でも、舞妓さんならではといえるのが、西陣織の
「だらりの帯」。

歩くたびに揺れる幅広の長い帯のことです。見習い時代の
「半だら帯」から、舞妓としてデビューすると、晴れてだらりの帯
が、許されるのです。

この帯は、江戸時代には、商家の若娘の締める帯でした。
舞妓さんがだらりの帯をつけるようになったのは、江戸時代も
終わりのこと。

裕福なお宅の娘さんを真似て、舞妓さんの衣装としたそうです。
裕福な町娘姿を真似たのは、せめて格好だけでも町娘の
気持ちを、味あわせてやりたいという、お茶屋さんの 女将さん
たちの、" 親心 " だったということです。

当時、舞妓になったのは、親の借金のかたなどで身売りされて
きた、10代の女の子たち。

一度、花街に身を置けば、町娘のような幸せな結婚は、まず
望めませんでした。

そこで、舞妓のあいだだけでも、町娘と同じ格好をさせて
もらったというわけです。

また、舞妓から芸妓となる「衿替え」の日取りが決まると、髪型
も、「先笄(さっこう)」という町娘風に結うことが許されました。

ちなみに、だらりの帯の長さは、約5メートル。長くて重くて、
女手ではとても結べないので、男衆(おとこし)さんたちに
結んでもらっているのです。


 








2012年11月25日日曜日

憧れの舞妓さんの修行の日々って?

Hirokoです。

今日はいいお天気です。寒さも和らいでいるように感じます。

今、京都に来られている観光客さんも 、もしかして
"ハードスケジュール" こなされているのでは、と思います。
(いいお天気なんで(#^.^#) )

私は今日は休日で、朝から自転車屋さんへ行ってきました。
後ろのブレーキが効かない、状態で乗っていましたので、
修理に持っていったのです。(もう、こけたくないので^^;)

「いくらくらいかかるんやろ~?(ドキドキです)
「はい、なおったで~」と自転車屋のおっちゃん。チャチャッ
と、ものの数秒触っただけです。「??? エッ?なおったん・・・」
「ココ外れてただけ 」と言われました。 「で、いくら~?」

多分、「いらん」と言われることを予測しながら、一応聞いて
みました。やっぱり「エエよ~」でした。 内心、" おし! "と
思いながら得した気分で、"今日はいいことあるかも~"。


京都の街を歩いていて、舞妓さんを偶然見かける方も
おられるかも分かりませんが、"運" が良い方なのでは、
と思います。

京都のガイドブックには、「舞妓」と書いてあることもあれば、
「芸妓」と書いてあることもあります。かと思えば、「芸舞妓」と
書いてあることもー。

いったい、「舞妓」と「芸妓」は、どうちがうのでしょう。
あらためて、そう聞かれると、「はて?」と首をひねる方も
おられるのでは。

簡単に言えば、「舞妓」は15~20歳くらいの修行中の身の上。
「芸妓」は「舞妓」を卒業した人のことをいいます。

一般に 「舞妓」になるのは、中学を卒業した女の子。最近は、
高校を卒業してから、この世界に入ってくる子もいるそうですが、
いずれも、最初の1年間は「仕込み期間」。

箸の上げ下げからはじまる行儀作法、京舞や三味線にお囃子、
独特の京言葉などをみっちり仕込まれる。

もともと、「舞妓」になる子は、京都とその周辺出身の子が
多かったのですが、最近では地元出身者は減って、全国各地
から、こられるそうです。

関西以外の出身者は、京言葉を覚えるのにとても苦労する
のではないでしょうか。

いまでは、京都っ子でも、「そうどすえ」「元気にしといやすか」
といった言葉はほとんど使いません。

街で聞いて慣れるというわけにもいきませんし、花街独特の
言葉にとまどってしまう、というわけです。

そうして、1年間の修行を終えると、いよいよ「舞妓」として、
デビュー。初めてお座敷へ出る日は、先輩にお化粧を手伝って
もらい、首筋に「三本足」という独特の化粧をして、紅は下唇に
だけさします。

この日から、一人前の舞妓として、お座敷で舞や唄を披露。
やがて、売れっ子になれば、お座敷からお座敷へと飛び回る
ことになります。

舞妓を数年つとめたあとは、芸妓になるか、この世界に別れを
告げるかを決めなければなりません。

芸妓として残るなら、「衿替え」という儀式をして、あらためて
デビューし直す。

なお、結婚すると、花街(かがい)にはいられないのが、昔から
のしきたり。年頃になると、結婚するか、芸妓をつづけるか、
悩む子が増えることになるということです。








「舞妓」は京都だけ
「舞妓」という呼び名の歴史は意外と新しく、
大正時代に入ってからと言われています。しかも「舞妓」は
京都の花街だけの呼び名であることはご存じでしょうか?
関東では、京都でいう舞妓のことを「半玉(はんぎょく)」、
芸妓のことを「芸者」と呼びます。

2012年11月24日土曜日

知恩院を巨大な寺院にした人?

Hirokoです。

(ン十年前になりますが)私が通っていた高校は私立の女子高
でしたが、"お坊さん先生" が多かったです^^;

仏教精神に基づく人間教育をおこなうことを建学理念としている。

という、浄土宗系の高校で、学校行事で知恩院さんに参拝したり、
と、知恩院さんは " ご縁 " のあるお寺でもありました。

私の時は、幼稚園、中学校、高校、短期大学まであり、女子中、
女子高でしたが、現在は学校名は改称され、小学校、大学が
新たに設立され、学科も増え、共学になっています。


毎朝、通勤・通学ラッシュの電車に乗り、通いました。1時間
かけて。カバンを離さない! という努力を強いられ・・・

つまり、カバンと体が逆方向にいく。自分の意思ではなく、です。
電車のドアが閉まらない。と車掌さんが必死で人を押し込む。
毎日です。痒くても手が届きません。足を踏まれても、ただじっと
ガマンの子です。

通勤・通学ラッシュの電車に乗ってるよ~。の方には、よ~く
分かって頂けると思います^^; 
でも、車掌さんが、必死で人を押し込んでいる光景って、今は
どうなんでしょう? (・3・) アルェー


廊下を歩くと、キュッキュッと音のする「鴬張り」で有名な知恩院。
このお寺を訪れた人は、まずその巨大な敷地と建物に驚かれる
のではないでしょうか。

入口に立つ三門が、高さ24メートル、幅27メートル。現存する
木像建築の楼門としてはわが国最大です。

また、開祖である法然上人の御影が飾られる本堂は、4000人を
収容でき、まるで学校の体育館のような大きさ。

さらに、広場をはさんで御影堂と反対側にある鐘楼も、巨大な
ことで有名です。

釣鐘の高さは 5.5メートル、重さは70トン。これを僧侶が17人
がかりでつく様子は、大晦日の『ゆく年くる年』でもときおり
紹介されますのでお馴染みだと思います。

知恩院がこれほど大きなお寺となったのは、江戸時代、
徳川将軍家から手厚く保護されたからだといわれます。

前述のように、知恩院の開祖は、鎌倉時代に浄土宗を開いた
法然上人。公家のための宗教だった平安仏教に疑問を感じ、
庶民のため、念仏を唱えるだけで救われると説いた人です。

知恩院も、当時、庶民のために念仏の教えを説いた
「吉水の 草庵」が起源とされています。

ところが、時代がかわると、鎌倉新仏教もしだいに権力に
近づくようになります。

知恩院も例外ではなく、やがて徳川家が浄土宗の教えに帰依。
庶民のためのお寺だった知恩院は、徳川家の財力によって
整えられ、京都でも珍しい大寺院となりました。

そのため、お寺ファンのなかには、銀閣寺の少し南にある
法然院のほうが、茅葺きの小さな山門などがあり、"庶民の味方"
だった法然上人らしいという人もいるそうです。

この法然院、江戸時代、知恩院の第三十八世萬無和尚によって、
念仏道場として建てられたお寺です。



知恩院

全国に7000余の寺院を擁する浄土宗の総本山。 
法然上人が晩年住まわれ、念仏の教えを説かれたお寺です。






 江戸時代、元和7年(1621)二代将軍徳川家忠が三門を建立、また寛永16(1639)に徳川家光公が御影堂を建立するなどし、現在の寺が形づくられている。
 知恩院へ来て、まず対面するのが高さ24メートル、幅50メートル、木造の門としては日本最大級の三門(国宝)である。この、三門を潜り御影堂(本堂)へ行くには、目の前の「 男坂」と呼ばれる石段を登るか、右手に造られた緩やかな坂の「女坂」を登るかのどちらかである。男坂は勾配がきつい石段のため、心臓や膝を気にされる人は「女坂」を奨める。





「おとこ坂」の頂上から振り返ると、
 高さ24mを誇る三門も下に見える 。
急勾配の石段である。    

           







         



                      「おんな坂」は 緩やかな坂のため、歩い。        
                      「おとこ坂」の右側(南)にある 。      
                             





勢至堂の後ろ(北側)に広がる墓地に千姫の墓がある。
徳川秀忠の娘で、7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、後に大阪城落城で
連れ戻されるという波乱の人生を送った女性。





寛永13年(1636)に鋳造された日本三大名鐘の一つとされる梵鐘。高さ3.3メートル、口径2.8メートル、厚さ30センチ、重さ70トンもあり、重要文化財に指定されている。年末(大晦日)僧侶17名により鐘が突かれる風景は、TVでもよく紹介されている。































2012年11月23日金曜日

亀岡の保津川下りが人気のわけは?

Hirokoです。

私がまだ小学生くらいのとき、父の運転する車で、保津川へ
川遊びによく連れて行ってもらいました。

車が大好きだった父の運転はさすがに上手で、当時乗り物酔が
ひどかった私は、父の運転する車では、不思議と醉うことは
なかったです。

今流行りの保津川下りの経験はありませんが、川の水は冷たく
夏でも涼しかったという記憶があります。楽しかったです。


京都駅の端のほうに「嵯峨野線」のホームがあります。
嵯峨野線は、京都を起点とする山陰本線のうち、京都ー園部間
のことですが、京都通の間で人気スポットとなっているといわれる
のが、この嵯峨野線の亀岡駅周辺。

このあたりは丹波地方と呼ばれ、昔から京都への食材供給地に
なっていました。

とくに、丹波のマツタケや黒豆は全国的に有名だと思います。
最近では、緑豊かな田園地帯に残る茅葺きの民宿に泊まり、

山の幸を生かした料理を味わう小旅行が、若い人から年配の人
まで、幅広く人気を集めているようです。

なにしろ、京都駅から亀岡駅までは普通列車でも、わずか30分。
京都観光のついでに、足を延ばす人が増えているそうです。

その亀岡周辺で、夏の間、多くの観光客を集めているのが、
明治時代から続く「保津川下り」。

亀岡市の中央を流れる保津川は、保津峡を経て京都市内の
嵐山へと下っていきます。その間、約16キロを舟に揺られて
下って行くのが、保津川下りです。

川岸の風景は四季を通じて美しく、場所によっては山肌や
巨石が迫ったり、水しぶきをあげて落流する地点があるなど、
スリルにも富んでいるそうです。

京都の人は、「保津川下りいうたら、それはもう怖~て
涼しいて」といわれます。

もともと、保津川は、丹波地方の木材や穀類を京都へ運ぶ
水路でした。明治28年頃から、観光客を乗せた川下りが
はじまり、現在では年間30万人もの観光客を集めている
そうです。

保津川下りの舟に乗ってみたい、とも思いますが、やっぱり
「怖~てよう乗らんわ~」の気持ちが先に立ってしまいます。


コース

激流が岩を噛み、舞い上がる波しぶき、急峻な山々を縫うように
流れる川景色の中に、千年に渡り、京の都を支えた水運文化が
今も息づく京都・保津川。
華やかな桜の色香に誘われ、‘いのち’が芽生える新緑の春。
清涼感漂う山景色が躍動する夏、艶やかな紅葉が錦絵を描き彩る秋、
凛とした静寂に包まれる枯山水の冬。
清流の水面に日本の‘四季’を映す保津川。
悠久の‘流れ’が刻んだ巨岩、奇岩の数々。
はしゃぎ戯れる魚の群れ。羽をひろげて峡谷をゆく水鳥たち。
ありのままの厳しくも美しい‘自然’を伝統の技で押し流す船頭たち。
静寂境に遊び‘感動’と‘癒し’の世界へと誘う贅沢な‘舟旅’。

保津川下り、しばし日常を離れ、その身を流れにまかせてみませんか。

 




2012年11月21日水曜日

あの小倉あんと小倉百人一首との関係?

Hirokoです。

仕事をし初めて4日目。まだまだ体は慣れません。
体のアチコチが痛いです。半年間のブランクというヤツは厄介です。

パン屋さんで働いていますが、パンのみではなく、ケーキやお菓子
などなど、規模デカ過ぎパン屋さんなので、覚える事は山ほどあり、

何もかもが目新しく新鮮な感じなのと、本来負けず嫌いの性格
もあり、また、仕事を教わることに年齢は関係ない、と思って
いますので、自分より若くあろうが、先輩は先輩。返事は「ハイ」で
間違えば「スミマセン」。「アリガトウゴザイマス」も忘れずに、励んで
おります。

通勤には自転車を使用していますが、やってしまいました。3度も。
こけました(~_~;) 日頃の運動不足と自転車に乗り慣れていない。

その一、運転手の脇見運転で自動車に巻き込まれそうになり、
(これは、車の被害の方が "大" で私に怪我はありません)

その二、鉄塔に左のハンドルをぶつけて、バランスを崩し、透かさず
自転車を放り投げ、私は "セーフ"。

その三、カーブを曲がりきれず派手に転倒、逃げれませんでした。
ズリッとすりむきました。三ヶ所。鼻は高かったようです。

母は「だいじょうぶか~」と言いながら、私の顔を見て、笑います。
「アンタ、鼻高かってんな~(プッ)」 失礼な親です。

「せやけど、これだけで済んでよかったな~」 と慰めてもくれます。
が、アンタのこれだけってどんだけ?とも思います。
私は結構ショック受けてるんですけど・・・。ε=(・д・`*)ハァ…

幸いなことに、勤務中はマスク着用なので、大きなマスクで顔は
隠れます。明日一日行って、次の日は連休とっててよかったです。


ただ今紅葉の観光シーズンで、観光客さんで賑わっている京都。
京都っ子のデートスポットの一つに、小倉山展望台があります。

嵐山高雄パークウェイの料金所を入って最初の休憩展望所の
ことで、紅葉のシーズンは茶屋も営業していて観光客で賑わって
います。

でも、京都っ子が行くのは、シーズンはずれか深夜。誰にも邪魔
されず、京都の夜景を楽しむことができるからです。

ただ近頃は、京都っ子でも「小倉あん」や「小倉百人一首」が、
ともにこの小倉山にちなむことを知る人は少なくなっているそうです。

小倉あんパンが大好きという子も珍しくなったし、小倉百人一首で
カルタ遊びをすることも少なくなったからでしょうか。

小倉あんは、江戸時代、京都の船橋屋という和菓子屋が考え出した
もの。

あずきのこしあんに、蜜漬けにしたあずきを混ぜて売り出し、
大評判 をとりました。その時、主人が、こしあんの中に入ったあずき
の粒が、鹿の斑点に似ていることから、「鹿といえばモミジ、モミジと
いえば小倉山」と連想して、「小倉あん」と名づけたと言います。

一方、小倉百人一首は、鎌倉時代の歌人藤原定家が、奈良時代
から、鎌倉時代までの100人の歌人の和歌を一首ずつ選んで
まとめたもの。

厳密には、定家がまとめたものを後の人が補訂し、現在のような
体裁が整ったのは南北朝時代と言われています。

当初は「小倉山荘色紙和歌」、あるいは「嵯峨山荘色紙和歌」と
呼ばれ、これらの名は、定家の別荘が嵯峨野の小倉山にあった
ことにちなんでいます。

ところが、室町時代になると、似たような歌集がつぎつぎと作られ、
「新百人一首」「女房百人一首」などと名付けられました。一説に
よれば、こうした "類似品" は900種以上にのぼったといわれます。

そこで、パクリ本と区別し、元祖であることを強調するため、定家の
ものを特別に「小倉百人一首」と呼ぶようになったのです。

小倉百人一首と小倉あん、その時代はちがっても、名が嵯峨野の
小倉山に由来する点では共通しています。

とでも教えてあげれば、小倉山でデートする京都の若者たちも
「へぇ~」と驚きの声を上げるかも知れません。 (^0_0^)




 嵐山・清滝口ゲートから最初に到着するのが、ここ小倉山展望台です。紅葉・桜などの時期は多くの人で賑わい高雄そばなどの名物を食べることができます。但 し、夜になると人はほとんどいません。そのため車内鑑賞も可能だと思います。嵐山・高雄パークウェイの展望スポット内では一番設備は充実していると思いま す。特にトイレは展望スポット内ではここにだけ設置されています。夜景は京都市内を中心に眺めることが出来ます。






              京都市の夜景



~営業時間~

1月・2月 09:00~19:00
3月~6月 08:00~20:00
7月・8月 08:00~21:00
9月~12月 08:00~20:00
※土日祝日及び1月1日~3日、7月21日~8月31日、
10月21日~11月30日は二輪車の通行禁止


2012年11月20日火曜日

三十三間堂の通し矢とは?

Hirokoです。

また寒くなりました。11月も半ば過ぎ、月日が経つのは早い
ものです。年末に備え、アルバイトを始めました。^^

私には子どもが二人いますが、それぞれ就職して自分の道
を歩んでおり 頑張っていますので、私も負けていられません。
頑張ろう、と思います。

その、子ども達が高校3年間の部活動でもやっていました、
弓道に因んで......。


全国の弓道家が集う行事、三十三間堂の通し矢(弓引き初め)
とは?

東山七条にある三十三間堂は、剣豪・宮本武蔵が
吉岡清十郎と対決をした場所としても知られています。
(ちなみに、2003年はNHKの大河ドラマに登場した事もあって
観光客数が増えたそうです)

江戸時代、この三十三間堂の名物行事だったのが「通し矢」
です。およそ100メートル離れて、中空に下げた輪の中に、
24時間で何本の矢を通せるかを競った "スポーツ・イベント"

その最高記録として、今も残るのが、紀州藩の和佐大八に
よる 8133本。貞享(じょうきょう)四年(1687年)、弱冠18歳の
青年は、午後6時から翌日の午後6時までの24時間に、
103053本の 矢を射て、じつにその62パーセントを通したと
言われています。

単純に考えれば、約6秒に一本の矢を放った計算になりますが、
食事やトイレ休憩もあったでしょうから、実際は4.5秒に一本の
矢を放ち、その6割以上を輪に通したことになります。

当時、新記録をつくると、それを記した「天下惣一」の額が掲げ
られ 、その一部は現在も残っています。

もっとも、現代ではこんな挑戦をする人はいませんが、毎年、
成人の日には「三十三間堂大的大会」が催されています。
1500人以上が参加するため、一人が放てる矢は、わずかに
二本。

それでも新年の弓の引き始めとして、全国から弓道家が
集まってくるそうです。

当日は、屋台が出て、見学もできます。新成人の女性が、
きれいな着物に袴姿で矢を放つところも見物できますが、
そこは底冷え厳しい京都のこと。

見物するには、しっかりした防寒対策が欠かせません。
ので、これでもかッ! というくらいに着込んでください。^^;

足のつま先からジンジン冷えてきます。 上着だけでは
なく、足元の防寒もお忘れのないように。




 国宝 三十三間堂 
  

京都駅から東にタクシーで約10分。
東山七条に国宝 蓮華王院があります。
1164年(長寛2年)、後白河上皇の発願により安置された
千一体の観音様のうち、1249年(建長元年)の大火を
免れた156体と二十四部衆を復興し、現在も安置するのが
蓮華王院本堂「三十三間堂」です。








  通 し 矢



2012年11月19日月曜日

坂本龍馬ゆかりの地 ?!

Hirokoです。

今日は、久しぶりに京都駅へ行ってみました。
(ただの暇人、ではありません。目的あってです )

紅葉の季節。 たくさんの観光客で賑わっていました。
人、人、人、です^^;。 

九州に住んでいる頃に、よく 「京都に旅行しようと思う」
という方が多く、「どこがいいかな~」と、よく聞かれました。
自慢ではありませんが、あまりよう知りません。

というより、行ってないとこの方が多いです。
わざわざ、人が多い場所へは行きませんし、
「いつでも行けるし~」と思っておりましたので。

いざ離れてみて初めて、自分が生まれ育った街である、
京都の良さが改めて分かった気がします。

現在は伏見の方にいますが、こちらの土地感は殆どなし。
つい2~3日前も、迷子になりました。゚(゚´Д`゚)゚。

暗かったのと雨の中、途中で帰る方向がわからなくなり、
「ここどこッ??」 中学生の男の子に助けを求め、連れて
行ってもらいました。

「ボクの家ここ。オバチャン気ィつけてな !」 「エエ~ッ?!」
(真っ暗な道を)まっすぐ行ったら帰れるから。と教えてくれた
のですが、マジこわかったです(T_T)


京都伏見は、坂本龍馬のゆかりの地でもあります。


伏見の市街地の1キロメートル四方を巡り、幕末の歴史を
訪ねる散策コースあります。

この地区は、JR奈良線、京阪本線・宇治線、近鉄京都線
などの、最寄り駅から近く、京都市街、大阪・奈良方面から
の、交通の便も良いです。


坂本龍馬が寺田屋で襲撃された際、かくまわれた
「薩摩藩島津伏見屋敷跡」を巡るコース。

龍馬が傷を負って避難した材木納屋、寺田屋の旧跡地、
川べりからの 酒蔵風景のながめ、鳥羽伏見の戦いの遺物を
展示する月桂冠大倉記念館、伏見奉行所跡など、幕末の
伏見を思い描きながら各所をご探訪ください。




 スタート 
  丹波橋駅(京阪本線、近鉄京都線)【伏見区桃山筒井伊賀西町】

 
 A 
  「薩摩島津伏見屋敷跡」石碑(松山酒造)【伏見区東堺町】

「坂本龍馬 寺田屋脱出後 避難の地」であり、
「天璋院篤姫 洛中洛外滞在時の宿泊地」だった場所。
現在、月桂冠の関連会社・松山酒造が操業しています。 
その後は、濠川と並行する街路を進み、聚楽橋、毛利橋を経て、
紀州藩伏見屋敷跡に建つ月桂冠昭和蔵(伏見区片原町)あたりを
過ぎれば、大手橋の西詰めへと 出ることができます。
  「坂本龍馬、避難の材木小屋跡」石碑【伏見区過書町】

大手橋の西詰・北側に石碑が建っています。坂本龍馬が避難した
材木納屋は、実際には大手橋の東詰より南側の「村上町」にあったと
伝 えられます。本散策コース上でもそのあたり(濠川東岸)を通過します。
阿波橋を過ぎ、濠川と宇治川派流の合流点にかかる、であい橋からは
東方面の京橋へと 進みます。であい橋から南へ進めば、伏見港公園、
三栖閘門と資料館(伏見区葭島金井戸町)に向かうことができます。

 C 
  「伏見口の戦い激戦地」石碑【伏見区表町】

京橋の北詰・東側に川岸から道路への階段があります。
ここから竹田街道へ上がってすぐの歩道脇に石碑が建っています。
京橋から北へ 2ブロック進むと、信号のある交差点北東の
「電気鉄道発祥の地」石碑や、油懸地蔵尊のある西岸寺
(いずれも伏見区下油掛町)を訪ねることができます。

 
 D 
  「伏見長州屋敷跡」石碑【伏見区表町】

Cの「伏見口の戦い激戦地」石碑から南へ、京橋を渡り、信号の
ある交差点まで下ると、道路をはさんで向かい(竹田街道の西側)の
伏見土木事務所前に石碑が建っています。 竹田街道東側の伏見みなと
公園入り口から、昔ながらの装いの今富橋(伏見区表町~西柳町)を経て、
蓬莱橋へ向かいます。蓬莱橋の南東側の子楽園(児童公 園、公衆トイレ)
で、小休止が可能です。蓬莱橋を越えて北へ進むと龍馬通り商店街、
南へ進むと中書島駅(京阪本線)に至ります。
 
 
 E 
旅籠・寺田屋と旧跡地【伏見区南浜町】

蓬莱橋を北側へ出て、東西を走る南浜通りを西へ進むとすぐに
「寺田屋」に到着します。寺田屋の旧跡地は、現在、史跡公園の趣となって
おり龍馬像も建っています。庭園西側の旅籠の建物は見学が可能です。


 F 
酒蔵風景・月桂冠内蔵酒造場【伏見区本材木町】

蓬莱橋の南詰・東側の階段から川岸へ下り、 宇治川派流沿いの
遊歩道を東へ、道なりに進むと、昔ながらの酒蔵風景(月桂冠内蔵酒造場)
を望むことができます。酒蔵は南側(右側)から、前蔵・中蔵・奥 蔵と
切妻屋根が連なっています。川沿いの道路に上がり、弁天橋を渡って
北(酒蔵方面)へ進めば、月桂冠大倉記念館に至ります。


 G 
月桂冠大倉記念館【伏見区本材木町】

お酒の資料館として、昔ながらの酒造りに用いられた用具類や
明治期のびん詰め酒、広告ポスターなどを展示。月桂冠の歴史、
日本酒産業の歩みを垣間見ることができます
(開館:9:30~16:30、電話:075-623-2056)。

月桂冠大倉記念館から、酒蔵に沿って北へ進めば、江戸期建造の
大倉家本宅(非公開、伏見区本材木町)へと至ります。酒蔵兼居宅
として、用いられた建物で、表 構えには特有の酒屋格子が見られます。
この本宅前には、遠見遮断(四辻の四当り)が残っており、
伏見奉行所防衛のため街路がL字型に配されています。


 H 
伏見夢百衆【伏見区南浜町】

大倉家本宅の北西に位置する、大正8(1919)年建造の月桂冠旧本社。
現在、観光案内・喫茶・お土産販売店を、地域の街づくり会社・伏見夢工房
が運営しています(月曜日休み、電話:075-623-1030)。
 

 I 
  「伏見土佐藩邸跡」石碑(月桂冠情報センター前)【伏見区南浜町】

伏見夢百衆から、北へ進むと月桂冠情報センターに至ります。
この一帯には、かつて伏見土佐藩邸がありました。近隣には、酒蔵や
町家を改装した飲食店が軒を連ねています。


 J 
  「会津藩駐屯地跡(伏見御堂)」石碑【伏見区大坂町】

東本願寺別院がある場所は、鳥羽伏見の戦いの際に会津藩が陣を
敷いていました。この石碑の前にも遠見遮断(四辻の四当り)が見られ、
伏見奉行所防衛のため街路がL字型に配されています。
 
 
 K 
伏見奉行所跡の石碑【伏見区奉行前町】

Jの「会津藩駐屯地跡(伏見御堂)」前の遠見遮断を東へ進み、
京阪線の踏切、近鉄線の高架を越え、すぐ南に折れ、しばらく進んだ
東側の団地入口に、伏見奉行所跡を示す石碑が建っています。
かつてこの一帯は石垣で囲ま れ、敷地の中に伏見奉行所の建物が
ありました。鳥羽伏見の戦いの際には、幕府軍の陣地となり、
新撰組もここに駐屯していました。

 
 L 
御香宮神社【伏見区御香宮門前町】

伏見奉行所跡から北側に戻り、さらに大手筋通りまで進んで東へ
折れてください。朱色の大鳥居をくぐるとすぐに御香宮神社に到着します。
鳥羽伏見の戦いの際には、新政府軍の薩摩藩が駐屯していました。


 ゴール 
桃山御陵前駅(近鉄奈良線)、伏見桃山駅(京阪本線)、
桃山駅(JR奈良線)

ここから西へ進み、京阪線の踏切を越えれば大手筋商店街に至ります。
一方、東へJR線の踏切を越えてさらに進めば、明治天皇陵、桓武天皇陵、
乃木神社などを訪ねることができます。


※散策に際してのご注意

◆川沿いの遊歩道、交通量の多い道路もあります。
通行にはご注意ください。

◆予約の必要な施設、非公開施設も含まれています。
各施設の状況に応じてご訪問ください。

◆多くの史跡は民家周辺にあるため、地域住民の生活の
支障とならないようご配慮をお願いします。

2012年11月18日日曜日

道路を掃除する"しきたり" ?

Hirokoです。

私は、每朝6時半頃には起きるようにしています。
今は母と一緒に暮らしていますので(居候の身です)、
出来るだけ、母のペースを崩さないようにとは思っています。

チョットかっこつけました。違います。 母は、5時半頃起きます。
イヤ~普通に[+д+]/ ムリダーヨです。 「せめて6時半にして~」 と
お願いして、頑張って起きています。居候の身なんで・・・(-_-;)

朝起きて、部屋の掃除から一日が始まります。 私は低血圧でも
あり、ボーッとしながら掃除機かけて、拭き掃除までしますが、
母はその間に、京都でいうところの「門掃き(かどばき)」を
しています。

私の母は、父が亡くなって以来、一人で住んでいたのですが、
それまで住んでいた家は一軒家で2階もあり、足の悪い母には、
いろいろと不便だという事で、そこを引き払い、

「エレベーターも付いてるし、お友達もいるし~広いし~、
市営住宅に申し込んだら一で当たってん」 という訳で、
今は団地に住んでいます。

当然、玄関を開ければ、道路ではありません。通路です。 
「門掃き」とは言い難いのですが、やってる事は同じです。

箒で掃いたあとは、水まいています。 丁度、お隣側へ
半間(約90センチ)ほど・・・。
 

ハッキリ言って迷惑でしょう??? と思うのですが・・・


京都では、毎朝 「門掃き(かどばき)」されるとこ多いと思います。
「門掃き」というのは、町家のおかみさんたちが、家の前の
道路を掃除する"しきたり"と言いますか。

おかみさんたちは早起きして、朝ごはん前に家の前を
掃除されます。
 

この掃き掃除の "範囲" にも、暗黙の了解というものがあるようで、
その範囲は、お隣さんとの境界より、お隣側へ半間(約90センチ)
ほど 入ったところまで。

お隣さんの家の前も、少しだけ掃くことが京都風の気配り、
というわけです。

もちろん、家の前を掃除する家庭は全国にあると思いますが、
毎朝、門掃きをする地域は少ないのではないでしょうか。

京都で毎日の門掃きが習慣になったのは、市内に数多くある
お寺さんで、小坊主さんたちが毎朝、境内をせっせと掃除する
姿にならったものとも言われています。

また、京都の夏は、蒸し暑いことで有名。

そこで、毎朝、家の前に打ち水をするため、掃き掃除が
必要になったとも言われます。

門前の道路をきれいにしてから打ち水をすれば、多少は風が
起きて暑さがやわらぐからです。

「門掃き」の習慣はそんな生活の知恵も含まれているのでしょう。

 

なのですが、通路に水まく、というのはどうなんでしょう、です。
習慣とはこわいものです。

言うても、聞きません。「なんで、あかんの? 気持ちエエやない。」
と。  おとなりさん、足元わるゥて、すんませんm(__)m





2012年11月17日土曜日

これから益々賑わうと思います♪

Hirokoです。

今日はさすがに、引きこもっていました。 11月ともなるとやはり、
寒さが違うと思います。特に私は "冷え性 "なので、こたえます。

自分でも結構な冷え性だと、自負(?)しています。寝る時には、既に
くつ下着用。足元ひえひえで寝られないため、必需品です^^;

母からは、「アンタ気持ちワルないの~」 と言われますが、脱げない
です。 ですが、私よりもウワテがおりました。

私の姪っ子ですが、体温調節がうまく出来ない体質なのか、
超寒がりなだけなのか、よく分かりませんが、普通のくつ下の上に
更に、モコモコくつ下着用、長めの腹巻着用、部屋は温室状態です。

病気ではありません。至って健康です。なので、ただの
"超×2 寒がり " だと思われます。

とにかく、それだけ京都の冬は、私からすれば半端なく、寒い
ということです。(;・∀・)寒~。 

足のつま先からジンジン冷えてきますので、よそから京都に来られて、
今年初めて冬を迎える、という方は、くれぐれもお気を付けて 。


これから益々賑わうと思います。

京の台所として有名な錦市場が賑わうようになったのは?

「錦市場」のことを「にしきいちば」 と呼ぶと、観光客だとわかる。
地元では、単に「にしき」と呼ばれているからです。

賑やかな四条通から一本北に入った東西の通り、錦小路にこの
市場はあります。


東は寺町通から西は高倉通まで、約400メートルに、120軒ほどの
お店が並び、京野菜はもちろん、魚、乾物、漬物、お菓子、
台所道具までがそろいます。


午前中は料亭や旅館の仕入れ担当者、午後からは、主婦や
観光客が集まって、まさに「京都の台所」という名にふさわしい
賑わいを見せます。

この場所に市が立つようになったのは、室町時代の中頃のこと。

良質の水が湧き出たため、まず魚の市が立ち、鴨川はもちろん、
宇治川、桂川、さらに琵琶湖で獲れた魚が売られていました。

やがて、青物を商う人があらわれ、京都の中心に位置することも
あって、多くのお客で賑わうようになりました。

1700年代の江戸中期には、魚問屋だけで11軒も営業していたと
言われます。

さらに同じころ、大規模な野菜市場が開設され、錦市場は益々
発展することになったといわれます。

錦市場を生むきっかけになった "名水" を味わいたい人は、
高島屋裏手の錦天満宮に足を運んでみてください。

いまも、境内に「京の名水・錦の水」と呼ばれる名水が
湧き出ています。


参拝者は、この名水を自由に飲めますので、その味を楽しみ
ながら、はるか室町時代の魚市のにぎわいを思い浮かべること
が、できるのではないでしょうか。


 京の台所、錦市場 のマップ
                                    









 
京都市内の通りの名(路地)を覚える 
京都の手まり歌とも呼ばれます


♪ 丸竹夷

まるたけえびすに おしおいけ    
あねさんろっかく たこにしき

しあやぶったか まつまんごじょう  
せったちゃらちゃら うおのたな

ろくじょう ひっちょうとおりすぎ
はっちょうこえれば とおじみち
くじょうおおじで とどめさす


(解説)
丸 竹 夷 二 押 御池
姉 三 六角 蛸 錦
四 綾 仏 高 松 万 五条
雪駄 ちゃらちゃら 魚の棚
六条 七条 とおりすぎ
八条 こえれば 東寺道
九条大路で とどめさす

2012年11月15日木曜日

「まいど、おおきに~」

Hirokoです。

京都の街で買い物をすると「まいど、おおきに~」と言われた方も
おられると思います。 (私もよく使います)

これ、勿論「ありがとうございます」という意味ですが、ただ、場合によって、
「おおきに」は 「ありがとう」という意味とは限らないときもあります。


もともと「おおきに」は副詞で、「たいそう」や「たいへん」という意味です。
買い物をしたときに言われる「おおきに」は、あとにつづく「ありがとう」
が省略されています。

ですが、本来、副詞なので、「おおきに」のあとには、別の言葉が
省略されているかも知れないのです。


例えば、京都の女の子と合コンをして、話が盛り上がってきて、
女の子を誘ったとします。 

「今度二人で遊びに行きませんか?」と、言ったときに、
女の子から「おおきに~」という言葉が返ってきても、これは「OK」
という意味とは限りません。

もしかして、あとでガッカリすることになるかも知れない、という事です。
この「おおきに」のあとについてくる、省略されている言葉がくせもん
なんです。

「(私を誘ってくれて)おおきに~(ありがとう)」のあと、
「でも、行かれへん」が省略されている事もあるからです。 


京都人は、人の申し出をハッキリ断る人を、冷たい人とかキツイ人と
考えるとこありますので、断る言葉も省略してしまう、というか、
私は、寧ろハッキリお断りする方が失礼だと思っていました。

まァ 本当に行きたい時は、「おおきに~(ありがとう)、行く 行く」って
言います。という事です。
ホンマ、ややこしい話なんですが・・・ m(__)m


紅葉の観光シーズンで賑わっている京都ですが、「哲学の道」と
呼ばれるところがあります。何故、そう呼ばれるようになったのか。

哲学の道は、桜や紅葉が見事な散策路です。

清水幾太郎と西田幾多郎。同じ「幾多(太)郎 」と書いても、社会学者の
清水は「いくたろう」で、哲学者の西田は「きたろう」と読みます。

清水幾太郎は、戦後、社会主義色の強い平和論者として出発しながら、
60年安保の敗北を機に、改憲や核武装を唱えた社会学者。

一方、西田幾多郎は、戦前、西洋哲学がもてはやされるなか、
東洋的な基盤に立って東西の学問を融合させた日本の哲学の祖と
いわれる人物です。

当時、全国の学生は「京都大学に西田先生あり」と、わざわざ京大まで
聴講にかけつけ、聴講後は、現在、「哲学の道」と呼ばれる疏水沿いを
歩いたと言われます。

「哲学の道」は、北は銀閣寺から南は若王子に至る約1.5キロの
琵琶湖 疏水分流沿いの小径(こみち)で、近辺には、銀閣寺、法然院、
安楽寺、永観堂などの名所があり、春は約500本の桜のトンネル、秋は
紅葉が美しい散策路です。

この「哲学の道」という呼び名も、西田が思索にふけりながら歩いたことに
由来する といわれています。

当時、散策する西田のまわりを弟子たちが囲み、西田の言葉をひと言も
漏らさず、記録したというエピソードも残されています。

「哲学の道」という名の由来には、もう一つ説があります。

太平洋戦争に学徒出陣する京都大学の医学部生たちが、
ドイツ・ハイデルベルクにある 「哲学の道」から名づけたという説です。
ドイツの哲学の道も川岸にあるため、戦場へ赴く前の学生たちが、
それを真似て京都の小径も「哲学の道」と呼ぶようになったともいいます。

哲学の道の両脇には桜並木が植えられ、散歩には桜の時期が最高と
言われますが、満開に時期は短く、アッという間に桜の花びらが散って
いく。「哲学の道」と名づけた医学生たちも、ほとんどは戦地で桜の花の
ごとく散ったと言われています。


 

2012年11月7日水曜日

" 縁結び " の場所もたくさんあります

Hirokoです。

私は、結婚後は五条大宮というところで、暮らしていました。
便利のいいところでしたし、上の子がまだ、小さい頃の散歩コースは、
西本願寺でした。「ハトさん、見に行こか~」なんて、子どもをベビーカーに
乗せて、よく行きました。 

九州の唐津市にいた時は、テレビでよく京都のことが放送されていましたが、
「あッ、ここよく行ったね~」という場所も、テレビで見ると雰囲気が違います。


京都は観光地として有名ですが、京都にも "縁切りスポット" があるそうです。
聞くところによると、三ヶ所で 1. 清水寺  2. 植物園  3. 嵐山
 「エーッ! ( ・g・)うそー???」 なんですが・・・。 

私は学生の頃、友人と嵐山へ遊びに行き、ボートに乗ったりもしましたが、
女友達とでした。



その頃はまだ、芸能人さん達の進出もあまりなかったように思います。
ボートを漕ぐ作業は中々大変で(私達が"下手くそ"だった?)、目的の
方向ではなく、逆方向に行ったりしてました。「そっちとちゃうよ~」とか
喚いてました^^;


京都の女子大生の間では、こんな言い伝え(?)があるそうです。

「昨日、デートで植物園いったあと、清水さんへ
お参りして、最後に嵐山でボートに乗ってきたんよ。
これで、彼と完璧に別れられるわ」 という子もあらわれる。とか・・・


もちろん、" 縁結び " の場所もたくさんありますので・・・^^;
地主神社(じしゅじんじゃ)は、私の娘も行きましたが、残念ながら
女友達と行ったとか。


地主神社




「えんむすびの神さま」として知られる地主神社は三年坂から
歩いて5分、清水の舞台を出ると、すぐ左手にあって、修学旅行生や、
えんむすびの祈願に訪れる 参拝者で年中賑わっています。

特に境内にある「恋占いの石」は、若い男女はもとより、海外からの
参拝者にまでたいへんな人気であると言われます。

創建期は不詳で神代(日 本の建国以前)とされ京都でも最古の
歴史があり、本殿・拝殿・総門・境内地が国の重要文化財指定で、
世界遺産に登録されています。

1633年(寛永10)徳 川家光が再建した本殿は極彩色の華麗な建物で
入母屋造りと権現造りを折衷したもので、双堂という奈良時代の様式を
今に伝える。境内は桜の名所で知られ謡曲 「田村」「熊野」にもうたわれた
名桜「地主桜」があります。



もみじ祭り<地主神社>

11月23日、地主神社。

春は桜、秋は紅葉の名所として知れる清水・地主神社で、
秋の豊穣に感謝する祭り。

とくに紅葉は、この辺一帯「新高雄」とも呼ばれ るほどの
名所であり、その美しさを讃える。
拝殿にて神楽巫女による「剣の舞」「紅葉の舞」「扇の舞」
などの神楽が奉納され、枝ぶりのよい紅葉を神前に
捧げ る献花の儀や、火焚神事なども行われます。

市バス/五条坂、清水道。
問合先:地主神社075-541-2097。
参拝自由






2012年11月1日木曜日

初めて「清水の舞台」に行きました♪



Hirokoです。

私は、現在は京都の実家にいますが、半年前までは九州に住んでいました。
唐津市というところにいましたが、海が近く、環境も良かったです。

今、唐津では明日から3日間行われる、「唐津くんち」というお祭りの準備で
街中が賑わっていると思います。

今朝、主人から 「予備の布団はどこかな~?」と、電話が入りました。
毎年恒例行事の、娘の友達が泊まりにくるので、その準備をしているとのこと。

高校時代の同級生で卒業後も、ずっと連絡を取り合っている、仲良し3人組です^^
一人は、唐津で仕事をしていて、 一人は福岡に移住し、仕事も福岡です。

私の娘は、唐津から福岡まで通勤していて、と普段は仲良し3人組は
バラバラですが、「唐津くんち」のときは我が家に集まります。それ程、
唐津っ子にとって大事なお祭り行事なのです。


私は今、諸事情で京都の実家にいますが、寒くなれば必然と思い出すことが
あります。娘がまだ、私の体内に宿っているときのことです。
(妊娠9か月目くらいのときです)


主人の両親が上京したので、観光にと清水寺へ行き、2月で、底冷えがして
寒くて、チラチラと " 雪 " が降っていたのですが、清水の舞台へ上がりました。

途端に 「うわ~!」 。あちらこちらで歓声があがっていて、清水の舞台から見た、
雪景色のその光景が今も忘れられないほど、壮観でした。 私はその日、
初めて「清水の舞台」へ上がったんですが、 「来てよかった~」と、しみじみ
感動に浸っていました。


私は、最初行くことを渋っていました。「寒いから車から出たくない!」と・・・^^;
寒がりな上、妊娠9か月目、雪は降ってるわ、で 行かないと、ゴネましたが、
行って良かったです。何十年経った今でも、 あの景色を思い出すのですから。
無理矢理、降ろしてくれた(?) 主人に感謝です。















清水寺にある江戸時代初期建築の国宝建造物。
寝殿造風の建物を中心とし、前方左右に翼廊を出し、
その間は板張りの舞台となっています。

舞台は約12メートル の長い樹齢500年以上の欅の大木の束柱を
貫で組み合わせて支えられ、断崖上に架かっていて、坂上田村麻呂
が長岡京の紫宸殿を賜って本堂にしたといわれて います。

本尊は十一面千手千眼観音立像で国宝の厨子内に安置され、秘仏。
33年ごとに開扉される習わしになっている。近年のご開帳は2000年。
脇侍の毘沙門天、勝軍地蔵もともに秘仏。




11月も中頃になると、紅葉の季節です。この「清水の舞台」から見る
景色も壮観だと思います。

残念乍、私はまだ、紅葉で彩られた眺めを見たことはないです。
雪景色同様、きっと綺麗で、壮観だと思います。